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1:『歌うクジラ』連載終了&iPadとの出会い
今年2月、文芸雑誌「群像(講談社)」で、長編小説『歌うクジラ』の連載が終了しました。足かけ4年の連載だったので、やっと終わったという感慨に浸っていたある日、Appleからメールマガジンが届いて、指定のURLに飛ぶと、スティーブ・ジョブス自身による、iPadのプレゼンの映像がありました。惹きつけられ、100年後の未来社会を描いた『歌うクジラ』を、できれば紙に先行して、電子書籍としてこのデバイスで発表したいと思いました。連載終了が半年早かったらきっと紙書籍としてすでに刊行していたはずだし、半年遅かったらインパクトがなかったと、何か運命的な出会いのようなものを感じたのです。ただし、紙に先行して電子書籍として発売するためには、制作会社の選定と、それに何よりも講談社に率直に話し、承諾してもらうことが必要でした。わたしは『限りなく透明に近いブルー』という作品で講談社によって見出され、『コインロッカー・ベイビーズ』や『愛と幻想のファシズム』『共生虫』など多くの作品を出版してきました。これまで築いてきた良好な関係を壊すことは避けなければいけませんでした。
2:『歌うクジラ』iPad版制作開始&講談社との話し合い
(株)グリオは、JMMというわたしのメールマガジンを運営・配信している会社です。会長の中村三郎氏は、高校時代を描いたわたしの小説『69』で校長室にウンコをしたナカムラのモデルとなった人物の「実弟」であり、社長の船山浩平氏は06年のドイツワールドカップをともに取材した友人でした。グリオの専門は音楽制作ですが、ITに強く、Webページのデザイン・制作なども行っていたので、今年の5月末、『歌うクジラ』の電子化をいっしょにやらないかと相談し、快諾を得ました。アーティストやデザイナー、プログラマーなど、グリオの若いスタッフのモチベーションは高く、実際、7月初旬に電子化作業が終了するまで、彼らはほとんど不眠不休で働いていました。
グリオに制作を依頼すると同時に、講談社と話し合いを持ちました。講談社は、電子書籍への深い理解がある野間副社長の英断により、紙に先行する『歌うクジラ』電子化に理解を示し、しかも制作をグリオに委託することも了解してくれました。「異存ありません。もし協力が必要なときは何でも言ってください」という講談社ライツ局・デジタルメディア推進部の担当者の暖かい言葉は今も鮮明に覚えています。こうして、『歌うクジラ』の電子化作業が本格的にはじまりました。
3:『歌うクジラ』制作と販売
電子化の作業は刺激的でした。ほとんど毎日会ってアイデアを出し合い、数日後にデモ画面を見て、修正点を確認し合うというスリリングな日々が続きましたが、坂本龍一のオリジナル音楽が届いたとき、わたしたち制作スタッフの興奮はさらに高まりました。当初は、坂本龍一の「out of noise」というアルバムの楽曲を使う予定だったのですが、基本的にAppleのアプリにはJASRACに登録されている楽曲は使えないので、オリジナル楽曲を作ってもらったのです。電子書籍元年なんだから絶対にやるべきだと、坂本龍一からはメールで何度も勇気づけられました。そしてオリジナル楽曲も快く引き受けてくれたわけですが、送られてきたその音楽はすばらしく、「小説のために作られた楽曲というのは歴史上初めてかも知れない」と思うと、深い感慨がありました。
7月初旬、『歌うクジラ』iPad版が完成し、Apple本社の審査にも通って、ついに販売がはじまりました。制作費は、プログラミング会社委託実費で約150万、坂本龍一へのアドバンスが50万、計200万でした。ただし、わたしとグリオのスタッフの報酬は制作費として計上していません。定価は1500円としましたが、値付けにはかなり悩みました。400字詰め原稿用紙1100枚という長編なので、紙だと上下巻で間違いなく3000円以上の定価になるのですが、アプリとしての表示ではボリュームを示せないので、適正価格がわかりづらいのです。結局、紙のだいたい半額1500円なら堂々と売れるのではないかということで価格が決まりました。
売り上げの配分は、制作実費150万(坂本龍一へのアドバンス50万円は売り上げ配分の前払い扱い)をリクープする前は、村上龍:グリオ:坂本龍一=2:4:1、リクープ後は、4:2:1とすることにしました。『歌うクジラ』電子本はiPad、iPhone版を併せて、現在10000ダウンロードを優に超えています。わたしもグリオも確かな手応えを得ました。この成果をどう将来に活かしていくのか、わたしとグリオの次の課題が見えてきました。
4:幻冬舎との話し合い
幻冬舎は、親友の見城徹が興した会社で、わたしは特別な思いを持っています。『歌うクジラ』の電子化作業が進んでいる間も、幻冬舎と何度も話し合いをしました。幻冬舎は電子化にどう対応するのか、これからのわたしとグリオの作業に関わることができるのか、おもな話題はそういったことでした。ただし、幻冬舎と組んで電子化を進めるとなると、他の版元出版社の既刊本には対応できないと思いました。
わたしは、電子書籍の制作を進めるに当たって、出版社と組むのは合理的ではないと思うようになりました。理由は大きく2つあります。1つは、多くの出版社は自社で電子化する知識と技術を持っていないということです。「出版社による電子化」のほとんどは、電子化専門会社への「外注」です。わたしのアイデアを具体化するためには、まず担当編集者と話し、仲介されて、外注先のエンジニアに伝えられるわけですが、コストが大きくなり、時間がかかります。『歌うクジラ』制作チームの機動力・スピードに比べると、はるかに非効率です。2つ目の理由は、ある出版社と組んで電子化を行うと、他社の既刊本は扱えないということでした。いちいちそれぞれの既刊本の版元出版社と協力体制を作らなければならず、時間とコストが増えるばかりです。今後、継続して電子書籍を制作していく上で、グリオと組んで会社を新しく作るしかないと判断しました。今年の9月中旬のことです。
5:G2010設立準備開始&電子化コストの透明化
会社を作ろうと思うんだけど、と坂本龍一に相談しました。絶対にやるべきで何でも協力する、という返事が来て、またしても勇気づけられました。グリオと、そして弁護士を交えて、何度も話し合いを持ち、まずG2010という会社名を決めました。Gは、GRAVITY, GALE, GUTENBERGなどの頭文字を意味します。会社設立に当たっては、まず何よりも、電子化のコストの透明化を目指すことにしました。電子化にかかるすべてのコストを公表するということです。『歌うクジラ』では、音楽やアニメーションが入ったリッチコンテンツだったので、グリオの作業チームの人件費を別にして、プログラミングの委託実費が約150万かかりました。文字テキストだけだったらいくらなのか、自社で制作ソフトを確保できたらコストはどのくらい圧縮されるのか、それらすべてを公表していくつもりです。
なぜならコストの透明化がなければ、売り上げの配分料率を決めることができないのです。そして、当然制作コストは、その電子本のコンセプトによって違ってきます。わたしは、現段階でコンセプトの種類を大きく3つに分けて考えています。その3つは、電子書籍の特性と魅力を象徴するものです。
6:G2010が考える電子書籍の3つの特性と魅力
電子版『歌うクジラ』にはパッケージとしてアニメーションと音楽がありました。デザインとプログラミングには相応のコストがかかりますが、従来の紙書籍では考えられないもので、これをリッチコンテンツと呼ぶことにします。その作業は「リッチ化」で、電子書籍における特性と魅力の1つです。わたしの既刊本では、たとえば『イン・ザ・ミソスープ』(97 読売新聞社)という長編小説で、リッチ化を考えています。テキストに添えて、あるいは巻末に付録として、東京という都市をとらえた「外国人カメラマンの写真」を、組み合わせるつもりです。他にもさまざまなアイデアがありますが、写真家とのコラボはリッチ化の重要な方法の1つだと考えています。慎重に写真家と作品を選び、厳密にデザインすることが前提ですが、テキストと組み合わせることで、立体的なコンテンツが生まれる可能性があります。
リッチ化では音楽や音声も重要です。『モニカ 音楽家の夢・小説家の物語』(96新潮社)は、坂本龍一の夢に、わたしが掌編小説を付けるという形の本ですが、電子化に際しては、坂本龍一に、彼の夢をナレーションとして肉声で語ってもらおうと考えています。
電子書籍における特性と魅力の2つ目は、パッケージに収まるボリュームの大きさです。『すべての男は消耗品である』(87-2010 KKベストセラーズ)というわたしのエッセイ集があります。vol.1が出版されたのが1987年で、今年末に第11巻が紙で出ます。単行本11冊分の原稿量はおそらく400字詰め原稿用紙で3000枚近くになりますが、電子化すると1パッケージにまとめることができます。『源氏物語』全巻を持ち運ぶのは無理ですが、電子化すれば携帯が可能です。文献集や判例集、楽譜、医学書などが電子化に向いているといわれるのは同じ理由です。あたかも、自分だけの図書館を端末内に作るようなものです。
また、電子化で、廃刊や絶版になった書物の復刻が容易になります。このことが電子書籍の特性と魅力の3つ目です。さらに、いくつかの復刻版を「編集」し、まとめてパッケージ化することも可能です。たとえば「瀬戸内寂聴が選ぶ『反権力小説ベスト20』」というような魅力的な企画が頭に浮かんできます。
7:*電子化のコストと基本的な売り上げ配分
電子化のコストは、リッチ化の程度で異なりますし、リーダ・ソフトウェアの進歩によって今後下がることが予想されます。G2010は、電子化のコストについて著作者に率直に伝え、協議の上、制作費のリクープ前とリクープ後に分けて売り上げ配分を決めようと思っています。前述したように『歌うクジラ』の場合、リクープ前が、村上龍:グリオ:坂本龍一=2:4:1、リクープ後は、4:2:1でした。制作費リクープ後にG2010が受け取る料率は、リッチ化のコスト・作業量に応じて、「売り上げ全体の(端末仲介料を差し引いたインカムの10%ではない)」10%から30%という数字を考えています。残りは、基本的に、すべて著作権料として著作者に配分します。
8:*既刊本の版元への配分
たとえばわたしのデビュー作である『限りなく透明に近いブルー』(76 講談社)という作品の場合、当時は出版契約書が存在していなかったということもあり、版元である講談社の許諾および売り上げ配分なしで、わたし自身がG2010で電子化することが、法的には可能なのだそうです。ただ、講談社に無断で『限りなく透明に近いブルー』を電子化して販売することには抵抗があります。
思い返せば、35年前、ちょうど今ごろの季節でした。西武新宿線の田無という街の書店で、わたしは「群像新人賞公募」を知り、それまで書きためていた創作ノートから、210枚の作品を1週間で書き上げました。「群像」という雑誌、講談社という出版社が、『限りなく透明に近いブルー』という小説が誕生する契機を与えてくれたことになります。それは、よく言われるような、出版社が新人作家を育てるとか、編集者が執筆に協力するというようなこととは微妙に違います。作品が生み出される「契機」「場」を提供してもらったということです。わたしは、これまでのすべての作品を自分で書き上げました。出版社および編集者は、多くの作品を書くきっかけを提供したということです。ただし、その心情的「恩義」を、そのまま電子化における版元への配分に反映させることは、不可能です。
そこでわたしは、版元に対して、電子化に際し、さまざまな「共同作業」を提案することにしました。たとえば、原稿データの提供、生原稿の確保とスキャン、写真家への連絡と交渉、さらに共著者がいる場合にはその連絡と交渉、そしてリッチ化の1部の作業、およびコストの負担などです。その上で、G2010が版元への配分率を決め、配分率は個別の作品ごとに設定します。たとえば『あの金で何が買えたか』(99 小学館)や『新13歳のハローワーク』(2010 幻冬舎)という絵本は、版元との新しい共同作業が発生しますので20から30%という高率の配分を予定しています。ただし、電子化への共同作業が発生しない場合は、配分がゼロの例もあります。
つまり、面倒ではあるのですが、G2010において既刊本を電子化して販売する場合には、それぞれの作品ごとに、売り上げ配分を決めることにしました。作品によって要件が異なるので、その作業は必須だと考えています。そういった個別の配分例を透明化・公表し、一定量積み重ねることで、全体としてのモデルとなっていくのではないかと思います。
9:他の作家
瀬戸内寂聴さんと、よしもとばななさんからは、『歌うクジラ』iPad版をご覧になって、未発表の作品をG2010で電子化したいと申し出ていただきました。今後も、他の作家からこのような申し出があった場合には、その作品の質と、電子化の意義をG2010が認めた場合に限り、応じる考えです。ただし、G2010のほうから、他の作家に対し電子化を働きかけることは今のところ考えていません。またG2010での電子化に当たっての、他の作家と版元出版社の交渉に関し、G2010はいっさい関わりを持ちません。
10:結語
巷では、書籍の電子化を巡って、作家と出版社が利害的に対立するという図式があるようです。わたしは、そういった図式には違和感があります。これまで、G2010の設立と電子書籍化に関する話し合いを、講談社、幻冬舎、小学館、集英社、新潮社などと行ってきました。各社共通して感じたのは、電子化への強い意欲でした。とくに講談社からは、『コインロッカー・ベイビーズ』(80 講談社)の電子化では高画質のアニメーションなど、制作費負担を含め全面協力したいという申し出を受けました。どの出版社からも、電子書籍ビジネスに関与したいという意欲を感じました。
そもそもG2010という会社を作ることにしたのは、大きく2つの理由があります。1つは電子化の作業コストを透明化して売り上げ配分に関する公平なモデルを示したいこと、もう1つは、電子書籍を巡る状況と、さまざまな利害関係者の思惑をポジティブなものに変えたいからです。
現状では、電子化を巡って、今あるパイ(作品)をどう分け合うのか、あるいは編集者、出版社、書店は生き残れるのかというようなネガティブな議論になりがちです。出版社、著者、書店、印刷所、取り次ぎなどの利害関係者が、ともすれば疑心暗鬼に陥るシーンも見受けられます。しかし、もっと積極的に、そして開放的になるべきだと、わたしは思います。現に、『歌うクジラ』の電子化は、わたしにとって心躍るイベントでした。グリオの若いデザイナー、プログラマー、アーティストたちとのコンテンツ制作は、時間を忘れるほど楽しかったのです。とくに、坂本龍一のオリジナル音楽が到着したときは、「小説のための音楽というのは歴史上なかった」という深い感慨がありました。そんな感慨を持ったのは、もちろん初めてでした。
電子書籍は、グーテンベルク以来の文字文化の革命であり、大きな可能性を持つフロンティアです。電子書籍の波を黒船にたとえて既得権益に閉じこもったりせずに、さまざまな利害関係者がともに積極的に関与し、読者に対し、紙書籍では不可能な付加価値の高い作品を提供することを目指したほうが合理的であり、出版、ひいては経済の活性化につながると考えます。
*注:「 7:電子化のコストと基本的な売り上げ配分」と「 8:既刊本の版元への配分」における料率では、店舗側の手数料を、Appleでアプリとして販売する場合の「30%」という数字を前提にしています。
1 NOV. 2010 村上龍
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