海外レポート/エッセイ
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村上 博美(むらかみ ひろみ)   ワシントンDCシンクタンク客員研究員
上智大学理工学部卒。経営学修士。国際関係論修士。
ワシントンDCの戦略国際問題研究所、経済戦略研究所等を経て2006年より現職。
監訳書に『ならずもの国家アメリカ』がある。
第52回 「ワシントンが悼む椎名素夫氏」
配信日:2007-04-03
 ワシントンDCではすっかりポトマック湖畔の桜が満開となっている。東京市から贈られた桜が1912年3月27日に2本植えられたのが最初で、現在では湖面にしだれる桜がびっしりと湖畔を囲んでいる。日本に住んだことのあるタフト大統領夫人が桜の植樹に前向きだったことから、その考えを知ったNY日本領事が東京市からのギフトとして桜を贈るのはどうかということになり、当初2000本の苗木が海を越えて1910年にワシントンへ到着した。が、渡航中に病気にかかり苗木が全滅してしまう。それを不憫に思ったある日本人が個人的に渡航費寄付等を行ったりして結果、新たに足立区の荒川土手から採取された3020本の苗木が再度海を越え1912年にワシントンに到着。そのうちの2本が日米政府の友好の証としてタフト大統領夫人と駐米日本大使夫人の手によって植樹されたという。1915年には米国政府がそのお返しとしてハナミズキの苗木を日本に贈ったとされている。

 日米関係の絆といえば、特に安全保障分野で太い絆を作り上げた椎名素夫元参議院議員の死をワシントンで悼む声は多い。英語に流暢の上、物理学科出身で核技術に明るく米国政府関係者に知己の多かった氏は1980年代から90年代の日米安保政策の指針を示したといわれ、日米関係を担当する米国政府関係者のみならず学会や財界からも尊敬の念を多く集めていた。かつてTBRビルの11階にあった氏の事務所では椎名氏詣での米国要人が後を絶たなかったという。

 特にリチャード・アーミテージ元国務副長官とは1967年に若き海軍士官として出会って以来、レーガン政権時代に更に親交を深めていたことでも知られている。2003年にパウエル国務長官の代理としてそのアーミテージ氏の手から日本人初の米国務長官特別功労賞が贈られた。特に米国が望む防衛力増強や牛肉・オレンジの自由化などで日本への風当たりが強かった頃、議会や外野の騒音を排除してギクシャクしていた日米関係を改善するためレーガン大統領側近のガストン・シグール大統領特別補佐官と話をつけ、1983年中曽根・レーガン単独会談を設定した功績などが有名だ。米国務省によれば「長期にわたり公僕として日米安全保障関係の支持強化と日米両国民の幅広い理解を深めるために多大な業績を残した」として賞が贈られた。具体的には、日本の政権指導者が判断を迷っていたレーガン政権のミサイル防衛計画にいち早く対応し二国間協力を進めたり、東芝ココム事件をきっかけにその後アジアのモデルともなった輸出管理制度の確立を主導したり、FSX戦闘機をめぐり日米間の衝突が激しくなった1988年米国議会と国会関係者を伊豆半島の某所に集めて解決方法を模索したりした。

 アーミテージ氏はスピーチの中で「彼が親米だからとか米国に友人が多いからという理由でこの賞が贈られるのではない。日米同盟によって北東アジアの平和と安定を守ることが、日本の国益のためになるという強い信念を基に最大限の努力をしてきた氏の業績を称える」ためだと述べた。現政権や在野の安全保障専門家に人間性の面でも多大な影響を与えたようだ。アーミテージ氏は「一貫性を持つこと、自身の信条に素直であること、交渉においては真摯であること、現実の自分より大きな理想を持つこと」を椎名氏から教えられたという。感銘をうけたのはアーミテージ氏だけではないようだ。1980年代後半にかつて氏の下で働いたことがあるというマイケル・グリーン元国家安全保障会議(NSC)アジア上級部長は椎名氏への追悼文を発表し、その中でブッシュ政権の中枢にいた彼はホワイトハウスの上司に許可をもらって、9.11直後椎名氏に個人的に日米関係上のアドバイスを仰いだという。グリーン氏は自分以外にも椎名氏のアドバイスを求めた米国政府関係者がいたことを示唆し「私たちの道しるべ」を失ってしまったと述べている。

 そんな椎名氏が初めて米国の土を踏んだのは当時社員だった電源開発の研修で1年間シカゴにあるアルゴンヌ国立研究所に派遣された1959年。「誠実な態度とフェアな言動であれば、私たちを米国人と同じように扱ってくれた」ことがその後の椎名氏の基本的な米国観となったという。それが対米関係で活用されたのが防衛予算をめぐるやり取りである。当時自民党政調副会長や安保関連委員会の重要ポストを歴任した氏は、日米安保政策の中でもソビエトが着々と極東地域の軍拡を進めていた冷戦時代の日本の置かれた情況などを考慮し、防衛費GNP1%枠を超える87年度予算を主導したことで知られている。椎名氏は「(日本は言い訳ばかりというレーガン政権側の)不満を解消するには、本音ベースの、正確で早い情報を米政権の中枢と交換することが必要だ」と考え「(防衛費の増額を)小出しにして、米国の反応をうかがうようなまねは私はしない。これ以上予算案は変わらないと判断したら、ただちに話すから信用してくれ。我々は交渉関係ではなく、共同努力関係だ」と言って了承をとりつけた。その接触相手の一人がアーミテージ氏だったという。

「原理を追求したり知的すぎることが政治家としては仇になった」というグリーン氏は、椎名氏が自分の手柄を簡単に他人にあげてしまう謙虚さを指摘する。国際派としてワシントンDCでの活躍が称えられるのとは対照的に、地元への公共事業の誘致が少ないことで衆議院議員を4期も務めたにもかかわらず選挙ではいつも苦戦を強いられたという。日米関係の潤滑油という重要な役割を果たしていた氏の地元選挙の様子を心配して、米国から氏の事務所に問い合わせがあることもしばしばだったという。国会が引けると赤坂の料亭に繰り出した他の政治家とは違って、すぐ帰路につき愛妻と一緒に好物のざるそばを囲みながら、その日の出来事を語り合うのを何よりも楽しみにしていたという椎名氏のご冥福をお祈りする。


参考:
http://www.csis.org/media/csis/pubs/070323_jcp.pdf
http://www.state.gov/s/d/former/armitage/remarks/21361.htm
読売新聞 「不羈不奔・椎名素夫回顧録」
村上龍RYU'S CUBAN NIGHT