海外レポート/エッセイ
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冷泉 彰彦(れいぜい あきひこ)   作家(米国ニュージャージー州在住)
1959年東京生まれ。東京大学文学部、コロンビア大学大学院(修士)卒。
著書に『911 セプテンバーイレブンス』『メジャーリーグの愛され方』『「関係の空気」「場の空気」』。
訳書に『チャター』がある。
最新刊『アメリカは本当に「貧困大国」なのか?』(阪急コミュニケーションズ)
第440回 「クールジャパンの悲劇と再生」
配信日:2009-12-19
 2009年が暮れようとしています。アメリカではオバマ政権が発足し、日本でも政権交代があった重要な年も過ぎ去って行こうとしています。それぞれの新政権の発足した意味については、まだ評価を下すには早いのですが、政権交代のもたらした混乱は、少なくとも日本やアメリカが現在抱えている時代状況の本質を暴き出したように思います。

 例えば、日本の場合では、世界でブームになっている日本のカルチャーの問題があります。私自身、NHKの『クールジャパン』という番組で、どうして日本の文化が海外で評価されるのかという議論を続けています。ですが、今のご時世では、海外で日本のカルチャーが評価されているからもっと広報活動をしようとか、「ようこそ・ジャパン」などといって海外から観光客や留学生を呼び寄せようというのは「旧自民党的(?)」、そんな気配を感じるのです。

 民主党政権下の現在では「国内で精一杯でそんなことを考える余裕はない」とか、それこそ「そんなことにムダな税金を使っているのなら仕分けの対象にすべき」ということになる、そんな雰囲気を感じます。もう少し言い方を変えてみると、背伸びをして国際化をするのには疲れてしまった、政権交代を機に、思い切り息抜きをして「無理をするのはやめよう」という気分があるとも言えるでしょう。

 経済成長がストップし、国内に貧困の問題が色濃く出てきた中で、そうした問題を修復する方向に焦点が移動するのは自然だと思うのです。ですが、国際的な舞台でコミュニケーションを行ったり、競争に参加し続けたりするのは「一部のエリートだけでよい」しかも「そのエリートのことを特に尊敬もしない」というセンチメントも同時に蔓延しているように思うのです。そこには、極めて濃厚な「内向き感覚」があるように思います。

 では、日本が自信喪失をしているのと同じように、世界における日本のイメージが低下しているのかというと、そうでもないのです。先日、知日派のアメリカ人たちと話をしていたときに皆が言っていたのですが、サムソンやLGの躍進はすごいけれども、アメリカでは誰も韓国のカルチャーなんて知らないし、興味もない、翻って日本の場合は、寿司からアニメ、サムライ、ハイテクに至る日本文化はみんな知っている。でもソニーやパナソニックはその好イメージを生かすことなく、ウォルマートでの叩き売りに走っている、そう憤っていました。

 相変わらず、アニメや漫画の人気は衰えていませんし、日本食レストランは「なんちゃって」的なものも含めてどんどん増加しています。にもかかわらず、日本人や日本企業はそうした「クールジャパン」への高評価を全く生かしていないのです。それどころか、どんどん自信喪失して内向きになってきている、その背景には何があるのでしょうか?

 私はこの問題の背景には「クールジャパンの悲劇」とでも言うべき状況があると思います。国外での日本文化への評価は非常に高いのに、日本人の自己イメージは低下の一方で、しかもカルチャーへの評価というソフトパワーを政治にもビジネスにも生かせていない、これは正に悲劇です。

 この「悲劇」はどうして起こるのでしょうか?どうやらそこにはハッキリとした理由があるようです。

 一言で言えば、海外の視線は「日本文化はポストモダンだからクール」だというハッキリした認識に基づいているのだと思います。ポストモダンという言葉の定義ですが、思想的には色々と厳密な話もあると思いますが、ここでは「単一の価値観を前提にして、機能主義的な合理性を追求する価値観」を「近代=モダン」とするならば、そのカバーできない範囲を求めて「異なる価値観の共存、効率だけでない感性や美意識の追求」などを行う発想のことだということにします。

 例えば、アメリカ人が寿司にあこがれるのは「栄養や満腹感」を摂るだけの、そして冷凍食品に代表される機能に偏りすぎた食文化(モダン)への反省から、健康、美意識、新鮮さ、素材の生かし方、静謐なテーブルマナーなど総合的な豊かさ(ポストモダン)を志向する中で出てきた発想だと言えます。

 また、アニメや漫画などについても、ディズニーに代表される勧善懲悪の二元論的な、そしてツイスト(曲がりくねった)させたストーリーの果てにハッピーエンドのカタルシスという公式通りのストーリーテリング(モダン)などに飽きた子供達が、より多元論的で現実性の入った日本アニメへの憧れ(ポストモダン)を強く抱いている、そんな構造があるのだと思います。

 日本の工業デザインなども、機能に徹していながら、機能主義だけでない使用感や存在感など感性の部分を「意識して高めている」点(ポストモダン)が評価されているのです。欧米の工業製品にも優れたデザインがありますが、それはあくまで機能に徹しているからであって、機能美の範疇を超えないものなのですが、日本製品はそこに「プラスアルファ」のテイストを乗せている、しかも非常に洗練させた形で乗せている点が異なると言われています。

 ところが、日本では「海外に受けるものは日本の伝統文化が中心」という発想がまずあり、そうした日本の伝統というのは「古くさい前近代」(プリモダン)だという認識があるのです。例えば、今はもう流行遅れになりましたが、バブル時代とその余韻の時代にはフランスやイタリアの料理が進んでいて(モダン)、寿司とか天麩羅は古くさい(プリモダン)という感性が強くありました。今でもそうした発想は残っています。

 アニメやマンガもそうで、日本ではもう主要なメディアとして定着してしまっており、今更そこにカテゴリとしての新しさを感じるということはないように思います。更に、様々な「外国人受けする」カルチャーに関していえば、サムライ文化にしても、禅、茶道、生け花、着物、歌舞伎、能狂言(これはなかなか紹介が難しいですが)、伝統工芸などについても、今現在では例えば東京圏の人々の日常生活の中には「メインストリーム」の存在としてはないと思います。好きな人にとっては非日常であり、そうでない人にとっては古くさい「過去の遺産」(プリモダン)なのです。

 また格差社会の中で、伝統文化には「富裕層」の匂いが感じられ、結果的に貧富の格差の拡大するムードが、21世紀における日本の「前近代性」として感じられ、反発の対象になっているという問題もあるでしょう。

 そんな中、外国人がやってきて「日本文化はクール」などと騒いでいると、そこにどんなにポジティブな意識があり、賞賛と憧れという姿勢がハッキリしていても「日本を遅れた文化として見ている」という受けとめ方が出てくるのだと思います。例えば、築地で競りの現場を見たがったり、京都で舞妓さんを追いかけ回す外国人が必要以上に嫌悪されるのには、「日本を遅れた東洋の文化として好奇心を持たれても嬉しくない」という暗黙の心理があるように思うのです。いわゆる「オリエンタリズム」とか「エキゾチシズム」の対象にされているという感覚です。これは完全に誤解なのですが、どうしようもない行き違いとしてあるように思います。

 面白いのは、捕鯨問題の文化摩擦はこれと正反対なのです。私は依然として岡田外相よりも鳩山首相の感覚に近く、ムリに捕鯨肯定論で摩擦を拡大するのは得策でないという立場ですが、それはそれとして、日本の中に捕鯨肯定論があり、欧米からの非難がされる構図は如何ともしがたい現状としてあると思います。そうした摩擦が拡大する中で、日本の中に「そこまで言われる筋合いはない」という感情が拡大するのは、十分に理由があるのです。

 日本の中の捕鯨擁護論は「アングロサクソンに文化的に屈服していた日本人が、唯一自らに反抗を許している分野」で「鬱屈した自尊感情のガス抜き」なのだとか「下関の捕鯨条約会議の際に外務省がナショナリズムを煽ったのが発端で、それまでは鯨食はマイナーだった」とか、色々な解説があります。私もそんなことを申し上げたことがありました。ですが、こうした説明は全て間違っているのではないか、最近そう思うようになりました。

 というのは、アメリカ側の報道(代表的なものは例の「シー・シェパード」を英雄に仕立てた、アニマル・プラネット社の「鯨戦争」というドキュメンタリー)を注意深く見ての結果なのですが、例えばこの「鯨戦争」では、シー・シェパードの連中は「知的能力が高く種の存続が危ぶまれているクジラを守るのは正義」という単一の価値観(モダン)を信じてしまっているのです。

 番組が良くできているのは「かわいそうな鯨」が「邪悪な日本の攻撃に傷ついて血を流しながら捕鯨船に収容されていく」のは「戦いの敗北」であり「無垢なクジラの犠牲の物語」という演出がされているという点です。悪名高い船長さんや、女性乗組員(欧米では結構人気があるようです)がボロボロと涙を流す中でバカバカしいほど荘厳な音楽が流れ、銛(もり)を打ち込まれ血を流しているクジラが日本船に引き上げられていく、そうしたシーンを背景に連中は「二度とこんなマネはさせない」などと言って「より過激な戦いへの決意」をすると実に劇画タッチ、プロレス的な趣向です。

 シーシェパードは「バットマンカー」のような派手な船を投入したりやりたい放題ですが、その背景にはTVでの効果を狙っているのは間違いありません。かなりのビッグビジネスになっているようです。そろそろ日本のイメージを守るためには外交ルートなりで圧力をかける何かしないといけないのではないでしょうか。最低限でも最近就役させた海保の真っ白な船体に「ジャパン・コーストガード」などと連中の分かる字で書いて「TVの演出に協力する」ような行為は止めるべきだと思うのです。

 やや脱線しましたが、日本人がこうした「シー・シェパード」に対して怒るのは「何もそこまで自分たちを悪者にしなくても良いだろう」という思い、あるいは「鯨ナショナリズム」ではないのだと思います。日本人の発想は「食文化の多様性は確保されるべきだ」というポストモダンの枠組みから来ているのです。オバマ大統領がオスロでのスピーチで言っていたように、現代という時代は文化の多様性が認められる、つまり一つの文化が他の文化を屈服させることは悪であるという思想が浸透した時代なのです。

 その最先端の文化多元主義の発想(ポストモダン)から控えめな捕鯨は許してもらいたいと言っているのに、自分たちのことをまるで「前近代の野蛮」だと決めつけて、単純な近代(モダン)の立場から「前近代の暴力には暴力で立ち向かっても構わない」とばかり攻撃してくる「それはないだろう」ということなのだと思います。自分たちはポストモダンだと思っているのに、プリモダンにされてモダンの立場からバッシングされるのは理不尽ということです。

 そもそも、「シー・シェパード」とTV番組「鯨戦争」のファンがカッカして怒る「銛を打ち込まれ、血を流すクジラ」の「無垢なる犠牲者」イメージというのは、私には宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』に出てくる「銛を打ち込まれ体液を流す王虫(オウム、オリジナルは虫の三つ合わさった旧字)」に重なって見えます。そもそも絶滅危機種への保護とか、自然との共生という思想(ポストモダン)に関しては、日本の方がはるかに先行しているのにどうして「前近代」だとバッシングを受けなくてはならないのか、日本人が怒るのは当然という面があると思います。

 鯨の話は脱線ですが、そもそも日本の伝統文化に外国人は「ポストモダン」を見て、例えば東京圏にいる人々は「プリモダン」を見る、その延長線上で外国人の「クールジャパン」礼賛がどうしてもオリエンタリズムやエキゾチシズムに見えてしまって喜べないし、ビジネスにも生かせない、まして国のソフトパワーとして活用ができない、この「悲劇」をどうしたらいいのでしょう?

 一つのカギは地方にあると思います。伝統文化が生活感覚に溶け込み、現在形の生きた生活の知恵として、美意識として洗練され続けているような地方が、ダイレクトに海外と結びついていく、これが突破口になるのではないでしょうか? 単純化して言うと、東京圏にいる人々には「地方は遅れているから東京に来た、実力があれば世界で戦いたい」という感覚にまだまだ束縛されているように思います。地方はプリモダンであり、東京は失敗したモダンであり、モダンな社会は海外にあるという感覚です。

 ですが、世界ではモダニズムは様々なところで行き詰まっているのです。これに対してポストモダン的な「新しさ」を皆が模索しているから「クールジャパン」ブームが起きるのです。ならば、東京にあるような「地方は古い、東京は新しいが上手くいっていない、可能性は海外にある」という序列感覚を一気に飛ばしてしまって、地方の生き生きした部分が直接海外と結びついてゆく、そこに可能性を賭けていく必要があるのではと思います。

 一つお断りしておきますが、私は何も「モダン」は全部ダメだから、ポストモダンの社会に進むべきだとは思いません。特に社会の基盤としての制度インフラなどについて言えば、プリモダンからモダンな社会にしっかり進んで、その上にポストモダン的なものを乗せていく、そんな順番は必要だと思います。生存権とか、労働基本権といった概念はモダニズムそのものですが、弱肉強食の横行する中で一人一人の命が虫ケラのように扱われた前近代を乗り越えて、少なくとも雇用者の横暴はダメなんだかとか、人には生きる権利があるからセーフティネットが必要なんだという近代の世の中になったわけです。

 その近代主義が既得権益化したり、行き詰まりを見せる中、もっと自発的な相互扶助であるとか、成長を前提としない持続可能なシステムといった「ポストモダン」的な試みが必要になってくるわけですが、そこで近代のシステムを全否定はできないのです。何故ならば、ポストモダンの価値相対主義というのは、気をつけないと前近代の暴力性にすぐ戻ってしまうからです。社会経済の枠組みの中では、近代の達成を守りつつ、その弱点をポストモダン的な多様性・柔軟性で補う高度な知恵が求められているというのが私の立場です。

 カルチャーも同じで、地方にポストモダンがあるというのは、場合によっては過大評価になる危険もあります。極端な男尊女卑があったり、年長者支配による活力喪失があったり、カルチャーの面ですと「家元」や「大家」の権威がカネと結びついたりする体質は、単なる「遅れた前近代」に過ぎません。変えるべき点は変えるべきだし、近代の枠組みができていないところは、まず近代を入れる必要のあるところもあると思います。

 ですが、人々の生き生きとした生活感覚や、深い美意識はそのままポストモダンの時代につながっていくのだと思います。伝統を残した地方がダイレクトに世界と結びつく、その延長で海外の刺激が「東京に濾過されずに」どんどん地方に入っていく、その結果として地方の守られるべきモノがしっかりと守られ、変わるべきところは変わってゆく、そうして活性化した地方が新幹線や航空航路の「逆ストロー効果」で東京から傷ついた人や、行き場のないカネをどんどん吸い上げるようになる、恐らくはこれが日本の経済社会文化の再生シナリオとして必要なのだと思います。
村上龍RYU'S CUBAN NIGHT