バラク・オバマがアフガンとイラクを訪問し、外交能力を誇示するパフォーマンスを続けながら、なし崩し的にブッシュ政権の現行のストラテジーに「理解」を示しています。いかにも彼らしく、これは連続的な現実対応であって、変節ではない、そんな説明というか押し切りをしている格好です。ですが、そうすることによって、新たに支持者を拡大することはあっても以前からの支持層は裏切らないだろう、そんな計算の上のことなのは明白です。更にドイツでは「新たな米欧関係をスタートさせる」などとブチ上げており、世界をまたいでの大がかりなキャンペーンは、前代未聞のスケールになっています。何でも北京五輪ではNBCの全国ネット映像で大々的にコマーシャルを流すそうで、正に「逃げ切り体制」に入っているとも言えるのでしょう。
ですが、オバマにとっては計算外の問題が一つありました。必死の外交キャンペーンにも関わらず、メディアでの、そして社会的な関心は今一つ盛り上がっていないのです。それにしても、余りにも時期が悪すぎました。映画『ダークナイト』が封切り日一日、そして最初の週末の興行記録を塗り替える「現象」を起こしてしまい、人々としてはオバマどころではなくなってしまったのです。それだけではありません。この『ダークナイト』は、とりわけ映画に登場する悪役「ジョーカー」の迫力は、あらゆる「偽善的なもの」を吹き飛ばす迫力を持ってしまっており、ある意味でオバマの「わざとらしい」パフォーマンスの説得力も消してしまったと言えるでしょう。
それにしても、大変な映画が出てきたものです。この作品はすぐに日本でも公開される予定ですから、一切ストーリーに関係することはお話しできませんが、ハリウッドの大作映画としては『タイタニック』や『ロード・オブ・ザ・リング、王の帰還』に比肩する、いやもしかしたらそれ以上の興行的な成功に至るかもしれません。既に「もう見たか?」ではなく「キミは何回見るつもり?」というような表現がネットにはあふれており、リピーターが劇場に殺到するという10年に一度の現象が動き出しつつあると言って良いでしょう。
肝心の映画のクオリティに関してですが、犯罪映画として、いやそれ以前に娯楽映画として前代未聞の質にまで高められた傑作であることは間違いないでしょう。前作の『バットマン・ビギンズ』もなかなかの出来でしたが、この『ダークナイト』を見てしまうと、あれは単なるバットマン映画だった、そのくらい本作は傑出しています。理由は簡単です。クリストファー・ノーラン監督と、ヒース・レジャーという二人が「ジョーカー」という究極の悪を映像化してしまった、その一言に尽きるのです。
残念ながら、レジャーという人はすでにこの世の人ではありません。ご存知の通り、今年の一月末に急死しており、そのニュースは世界中で話題になりました。ニューヨークのソーホー地区にあった、彼の終焉の地には追悼の花束が山のように積まれ、多くのファンが天才の夭折を惜しんだのですが、私はその際にはこの欄で特に取り上げることはしませんでした。というのも、その時点でレジャーが「ジョーカー」の役を撮り終わっていたことは分かっており、また少しずつ「ヒース・レジャー版のジョーカー」のイメージが伝わっていましたから、この『ダークナイト』の全編を見なくてはレジャーの追悼はできない、そう思っていたからでした。
やがて初期の予告編映像などを目にするようになった私は、その確信を更に強くしました。予告編の中での「ジョーカー」は殺気と死相の漂う「ただならぬ」形相を既に見せていたからです。そして、ようやく本編を見ることができたとき、私は打ちのめされました。ヒース・レジャーという人は、28歳の人生の最後に燃え尽きるようにして「悪とは何か」ということをスクリーン全体にブチまけ、そのまま駆け抜けていったとしか言いようがありません。実はレジャーはもう一本、テリー・ギリアム監督との作品を残しているようですが、この『ダークナイト』も遺作であり、そして恐らくは『ブロークバック・マウンテン』と並ぶレジャーの代表作として永遠に記憶されることになるでしょう。
既に何百万という人が見ており、ネット上には賛辞があふれています。例えば映画の中の「悪役」としては『羊たちの沈黙』でアンソニー・ホプキンスが演じた「レクター博士」に匹敵するということがよく言われていますが、私に言わせればレクター博士の「怖さ」は、あくまで観客がジョディ・フォスター演じるFBI捜査官の視点でレクターと対決するという演出の効果としての「怖さ」に過ぎなかったように思います。ですが、この『ダークナイト』でのレジャーは観客に対して直接対決して来るのです。「アンタは善が正しいと思っているが、それは本当なのか? そもそも善などというモノがあるのか? お前さんも偽善者ではないのか?」という問いをこれでもかと、突きつけて来るのであり、その「怖さ」は比較になりません。既に「物故者としてオスカーの助演男優賞(もしかすると主演男優賞?)は確定的」という言い方があちこちでされていますが、これも当然だと思います。
それにしてもレジャーのジョーカー役にかける執念は大変なものがあったようです。ジョーカー役といえば、1989年の映画『バットマン』(ティム・バートン監督)におけるジャック・ニコルソンの演技が一つのスタンダードになっていますが、このイメージをいかにして越えるのか、それがレジャーにとっては大きなカベだったそうです。そこで約4ヶ月間にわたって「ジョーカーの日記」というものをつけながら、レジャーは「究極の悪であるジョーカーは何を感じ、何を考えるのか?」ということを文章化する作業、そして同時にニコルソンの発声法とは違う自分なりの「ジョーカーの喋り方」を見いだすための試行錯誤を繰り返したのだそうです。その時期は、丁度、婚約者のミシェル・ウィリアムス、そしてミシェルとの間に生まれたお嬢さんとの「別離」の喪失感にさいなまれていた時期であり、レジャーはその苦悩も「ジョーカー」のキャラ開発の作業に叩きつけていったのでした。
その結果として、恐ろしいまでのジョーカー像を創り出すに至ったのですが、同時にレジャーは極度の不眠症に悩まされる中、複数の医師に処方された薬を重複服用する中で事故死に至ります。正に命と引き替えの役作りということになってしまいました。その命がけの努力の結果は、多くの身の毛のよだつようなセリフ、切れ味の良い演技として結実しているのですが、具体的な内容をご紹介することは映画の興趣を削ぐことになるので止めておきます。
その代わりといっては何ですが、このヒース・レジャー版のジョーカーのイメージを私なりに表現してみるとこんな感じになります。「闇に青白い炎が光っている。ふと手をかざしてみると、そこに暖かさはまるでない。それどころか炎に触れてみても全く熱を感じない。だが、炎に触れた指を見てみると、そこは形が崩れて腐敗している。痛みはないのだが、何も感じないまま自分の肉体の一部が滅ぼされたことに気づいたとき、すでに精神は激しい痛みと共に切り裂かれている・・・」、少々安っぽくどぎつい表現になりますが、そんなイメージでしょうか。
ちなみに共演しているベテラン俳優のマイケル・ケイン(前作同様好演しています)は「レジャーのセリフが余りにも怖いので、自分のセリフを忘れてしまうようなことがあった」と述懐しています。ベテラン中のベテランであるケインにそんなことが起きるというのは、やはりただ事ではないと思います。
そうなのです。この『ダークナイト』というのは激しい毒を含んだ作品なのです。もはや勧善懲悪のエンターテインメントの枠を完全に打ち破って、あり得ないような表現の領域に踏み込んでいるのです。そこでは、善という概念が徹底的に試練にさらされています。余りにも、余りにもジョーカーのキャラクターが説得力を持っているために、そして巧妙なストーリーテリングの技術の中で、善なるものの脆弱さが描かれているために、よほど精神的に力のある人間でないと、「それでも残る善」が何だか分からないのです。これは作品の決定的な問題点でしょう。
私個人の評価を言えば、芸術作品としては100点満点と言って良いのですが、幅広い観客層に訴えるエンターテインメント大作としては、功罪相半ばする作品だとしなくてはならないと思います。少なくとも善悪の概念の発達していない子供たちには絶対に見せられない作品です。特に、昨今の日本では、秋葉原の事件に加えて、バスジャック事件、八王子の事件という風に、実利ではなく自己顕示のための犯罪が頻発しています。またその背景には、家庭や社会の問題があり、恐らくは自己肯定感情の決定的な不足のために、ネガティブな回路に入っていった人間が最後にそうした犯罪に至るという理解がされています。
そのような環境では、この『ダークナイト』は全く「シャレにならない」とも言えます。アメリカの劇場では、上映が終わると大きな拍手がわき起こり、特にヒース・レジャーの名前が画面に浮かび上がると、大変な拍手の渦になりました。勿論、その多くは高校生以上であって、善と悪、フィクションと現実の境界はよく分かっている人々です。とりあえず、ジョーカーの演技に触発されて犯罪に走るようなことはないでしょう。日本でも言葉のカベがあるために、レジャーの毒に充ち満ちたセリフのニュアンスは直接は届かないと思います。ですが、誰にでも見せて良い作品であるかというと、大変な注意が必要だと思います。もう一度申し上げますが、親が「子供のどんな疑問にもしっかり答えられる」ということでもない限り、13歳未満の子供にこの作品を見せるのは賛成できません。
ジョーカーの犯罪者像に加えて、もう一つの問題は映画全体が問いかけてくる「現代において一貫性のある善というのは可能なのか」、という根源的な問いです。私は「問い続けることが唯一の善」というような優等生的で分かったような分からないようなことしか言えないのですが、とにかく見る人間の一人一人にそうした問題を突きつけてくるのは事実でしょう。
ただ、この映画のパワーはどこから来ているのかというと、それはアメリカのポップカルチャーではないように思います。監督のクリストファー・ノーランのバックグラウンドとしては、70年代から80年代に社会構造の転換に悩んだ英国カルチャーの光と陰の影響を強く感じます。この映画を理解する中で時代の闇に触れてしまったアメリカの観客たち、また劇場型犯罪の横行に悩む中でこの映画を受け止めなくてはならない日本の観客にとって、そのことは念頭に置いておいた方が良いように思います。
思えば、ヒース・レジャーに対して若者達が神格化をするというのも、ジョーカーという「究極の悪」を描いたことへのリアクションというよりも、若くして人生を駆け抜けていった者への無限の哀惜という趣があり、それは悪いことではないように思います。その意味で、善と悪、生と死の交錯する中にあるこの『ダークナイト』という作品が、これほどまでに人々の心を引きつけるというのは、そのこと自体は評価すべきなのでしょう。
本稿を書いている途中で、主役のクリスチャン・ベールがロンドンで逮捕されたというニュースが駆けめぐりました。どうやら、母親と姉を相手に諍いがあり、それで行き違いがあったというのが真相のようで、大袈裟に取り上げることではないのかもしれません。何よりも、長く子役として活躍する中で、スターダムを駆け上ってきたベールは、人並みの形で家族との関係を築けなかったというのは想像に難くない話であって、何となく心が痛みます。そんなわけで、このスキャンダルで映画の評価が傷つくようなことはないと思われます。いずれにしても、大変な映画が現れたものです。是非、一見をお勧めする次第です。 |