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3月に入って、春を遠ざけるかのように雪の日や最低気温がマイナスの日々が続いています。つい先日も息子を学校に送って行く時間でマイナス10度と、顔まで凍りそうな冷たい空気に包まれておりましたが、学校の校庭でダイヤモンドダストに遭遇し、凛とした空気の中で明るい日差しを浴びて、空気中の水蒸気が一瞬にして三角の氷の結晶となってキラキラと踊る光景に、親子で感動しておりました。我が家の物置の浪板屋根から滴り落ちる雪雫からできた、長さ50cmものつららたちも、陽光をたっぷり浴びて、浪板間隔でずらりと並んでおり、明るい日差しと冷たい空気が織りなす自然の美しさに心温かくしております。
自然だけを見ていると、平和そのもので、豊かな気持ちに包まれるのですが、風刺画問題の春はまだまだ遠いようで、イランとパキスタンを除く在中東デンマーク大使館は再開されましたが、ボイコット運動はまだまだ続いており、国民感情としてもこの問題に対する疲れを感じるこのごろです。2月26日のアナン発言を受けて、翌日の27日、臨時のEU外相会談がブラッセルでもたれました。「いかなる宗教をもそれをinsultしてはいけない」という決まりは作れないという見解のもと言論の自由は保障される中で、決まりにはできなくても「Please, don’t insult any religiousfeeling 」というような言い方にとどめた見解が示されました。またチェコの外相からは、経済的損害を援助するための基金を設立することが提案されましたが、これは採択されませんでした。それでも、経済的支援はできないものの、オランダやベルギーをはじめとする BENELUX諸国の外相からは、100%デンマークをサポートする意志が表明されるなど、EUの立場を明らかにしたものとなりました。ところが、ここへ来て、言論の自由を盾にすることに固執せず、いかなる民族や宗教もそれをからかったり、批判の対象にすべきではない、ということをより明確にすべきだという声も、EU議会内から上がって来ており、多数派ではないにしてもEU内での議論もこれからどうなっていくのか、というところです。
デンマークでは先週、内外のイマム(イスラム教司祭)やムスリムの大学教授などの知識人を招いて国内の政治家との会談が持たれました。ここでも、引き続きムスリム側からは、デンマーク政府の謝罪が要求され、「私たちは、デンマーク国旗を焼いた事や、大使館を攻撃した事などを謝るから、デンマーク政府も謝って欲しい」という発言に対し、デンマーク人民党の政治家が、「あなたがマッチをすって火をつけたのではないのに、あなたが謝る必要はなく、私たちも、新聞社のしたことに謝る必要はない」という姿勢を貫いたようです。他の政治家がどのような見解を示したのかが取り上げられていなかったので、詳細はわかりませんが、結局ムスリム側としては、政府が謝罪しない限りボイコット運動も解決しないだろう、と括ったそうで、デンマーク側は徹底した個人主義で筋は通っているのかもしれませんが、これでは話し合いの土壌に立てていないのはどちらなんだ、と非難されてもしかたないとも言えるでしょう。
一方で、12枚の風刺画が何らかの形で掲載された国の数が56カ国にも及んでいるらしく、言論の自由を主張するためだけでなく、興味本位、あるいは事の次第を説明するために掲載したメディアが数多くあることに、私の周囲のデンマーク人は驚いています。中でもイエメンの新聞が事の次第を説明するために(デンマークを非難する目的)、切手サイズのミニコピーを掲載したらしいのですが、その編集長が死刑になるかもしれないという話がありました。大きさの大小は関係ないとはいえ、そこまでの罪に値する犯罪行為なのか、ムスリム社会にいない者には、理解しがたいように思いましたが、結局検察側の求刑は認められず、裁判所の判断は有罪にとどまったようで、火種をまいた側の一デンマーク住民の心情としても、そこまでにいたらなくてよかったと思っています。
この間、デンマークのラスムセン首相の頑な態度も、より頑固さを増して来たようにも見受けられ、国内の産業界からの反発が特に大きくなっています。その反面、デンマークやノルウェーでも外国人政策に積極的(制限をかけたい)で言論の自由をより強く主張したい政党が支持率をあげていることも、私たち外国人が恐れていた影響のひとつであり、このまま大きな影響力を持たないようにと在住の外国人の多くは願っています。
風刺画問題を通じて宗教や文化、考え方の違いを深く考えさせられる中、3月8日は International Women’s Dayでした。男女同権を主張することに異論はありませんが、そもそも男女の間でも、違うからこそ認め合い助け合う事が必要だと思っているのですが、この日の早朝、世界の3大がっかりの一つとは言われつつも、コペンハーゲンの代表的ランドマークとも言える人魚姫の像が、全身緑に塗られているのが発見されました。これがフェミニズムによる犯行であることに(そうとしか受け取れないとされています)、権利を主張する間違ったやり方に、非常に哀しい思いをいたしました。
人魚姫の像が哀れであることは言うまでもないのですが、そこにはフェミニズムのスローガンが書かれ、また手首にはペニスの模型が付けられており、女性の立場としては、その意図が全く見えず、むしろセクハラ的な思いを感じるのは女性の方ではないかと思いました。こんなことをする女性がいて、またそれが女性の権利を主張するためだとしたら、大きな間違いであると、腹立たしい気持ちにもなりました。もちろん、犯人が捕まった訳ではないので、もしかしたらフェミニズムを装って世間を騒がせたいだけの愉快犯かもしれませんが、いずれにしても、人魚姫の像が哀れでなりません。
ご存知の通り、アンデルセン童話の人魚姫がこの像のモデルなわけですが、この彫刻のモデルは、当時王立劇場で上演されていたバレエ「人魚姫」のプリマドンナだったそうです。この演目を観劇した当時のカールスバーグ2代目社長が彫刻の制作を提案し出資したらしく、彫刻のモデルになったことがご縁で、人魚姫像の制作者エドワード・エリックセン氏とその後結婚されたとか。漏れ聞きかじりの情報ではありますが、それが岡田真澄さんの叔母さまらしいというお話で、そんなこともあってか、全く関係もないのに、親しみを感じる日本人も多いように思います。写真でしか見られたことのない方には、特に正面からの写真だと、足がついてるんじゃないの、って思われるかもしれませんが、この像は足首あたりから尾ひれのようになっており、モデルの足があまりにも美しかったため鱗で覆うことができなった、と言われています。1913年作のこの像、そんな作者や制作依頼者の想いなどは全く無視され、1963年に真っ赤に塗られて以来、今回のいたずらが9回目だそうで、物語の中だけでなく、彫刻になってまでも辛い思いをしているようです。中でも首が切られた事件は記憶に新しい方もいらっしゃるのではないかと思いますが、首を切られたのも実は1964年が最初で、幸いにも原型が残っているので、首を切られようが腕を落とされようが、復元できているそうです。
私もアーティストのはしくれとして、作品を故意に傷つけられる事には、憤りを覚えるのですが、野外の作品については、設置した時点から、こうした事もあり得るものとして、作者もある程度の覚悟はしているものと思います。落書きなどは日常的な犯罪として後を絶ちませんし、野外彫刻で一度もそうした被害に遭っていない作品はむしろ少ないともいえるでしょう。しかしながら、今回のいたずらは、フェミニストの犯行で、周囲の見解を聞いても意味が分からないと言っていますが、おそらく悲劇の象徴として女性の像がシンボル化されているからではないのか、という考え方があるようです。表現行為としての芸術を、こうした見解で傷つけられてしまうのも、その表現の範囲がどこまで許されてどこからが許されないのか、それこそ決まりなど作れるものではなく、また決まりを作ってしまえば、過去の名作や今後生まれて来る可能性のある作品をも否定しかねず、その意味では、宗教や文化の違いにどこまでの規則を設けるのかということがいかに難しい事かも、重ね合わせて考えてしまいます。 それにしても、同じ世界の3大がっかりのひとつと言われている、ベルギーの小便小僧は、世界中から衣装などを送られて人気がある事に比べると、ほんとうに人魚姫はかわいそうなことです。悲劇の象徴である事に抗議するのなら、素敵な衣装を着せてあげるくらいの、センスを見せてほしかったものだと思います。緑に塗り、処女の象徴でもある人魚姫にペニスを持たせるなど、女性が女性を傷つける行為でもあり、こうしたことをもし男性がしたとすれば、黙っていないであろう女性たちがいることも容易に推察できる事を思うと、思慮の浅い行為であるとともに、作品を侮辱すると言う意味で、醜い行為であると思います。
言いたい事や権利を主張するやり方を間違ってしまえば、論外のものになることの例であると思いますが、風刺画を掲載した事も、法律上まちがっていなかったことに固執するだけでなく、また新聞社(個)に対する干渉を避けるだけでなく、個人主義を承認する社会としての責任を、今一度検証する必要があるようにも思います。若い世代の間では、学校により多くのムスリムを受け入れて学校生活の中で、デンマークの社会環境や習慣を理解してもらい、また自分たちもムスリムから直に、彼らの風習を学びたいと、受け入れ体制を検討しているアフタースクールなどもあるようです。 人魚姫のお話では、人魚姫の思いだけが空回りをして、美声と交換に人間の足を手に入れたものの、哀しくも切ない恋は実りませんでしたが、これもまた異文化コミュニケーションの成れの果て、だったのかもしれません。哀しい思いをしたのは、必死になって相手の世界にとけ込もうとした人魚姫のほうであったことを思うと、美声を代償にしてしまったことが、言葉でのコミュニケーションを断ってしまい、異文化にとけ込めなかった最大の要因になったのかもしれません。
言葉という手段をもつ私たちは、言葉の壁はあるものの、努力して分かち合えるものがあることを、人魚姫のお話と緑に塗られた人魚姫像を見ながら、信じたいものだと思うのでした。
ところで、ベルギーには小便少女の像があることを、ご存知でしょうか? なんとも愛くるしい表情で憎めない小便少女。レストラン街の外れにひっそりと鍵のかかる鉄格子のなかで座っているのですが、訪れる人が少ないだけに、会えるとちょっとおまけ感覚の得した気分にもなりました。コペンハーゲンの人魚姫も、歩いてゆっくり散策しながら、あるいは、カナルツアーを利用して、海の方から観光客が群がっている光景をバックに眺めるのもいいかもしれません。角度を変えてものごとを見るというのは、いつも新しい発見を伴うものですから。
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