海外レポート/エッセイ
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妙木浩之(みょうきひろゆき)   東京国際大学人間社会学部教授
おもに、心と経済との関係を研究。著者に『父親崩壊』『心理経済学のすすめ』(新書館)、
こころと経済』(産業図書出版)他多数。
前回の心理経済学講座ファーストシーズンは『好きできらいで好き。〜心理経済学講座』(共著・NHK出版)に収載。
第40回 心理経済学講座セカンドシーズン 第40回
配信日:2010-06-09
【Iさんからのメール2】

 子供たちに残すべきもの、未来について考えると、先に見えるのは、何か暗いようにも思えるのですが、それはあくまで一時の迷いで、結局全体的には、GDPや構造的な問題が大きいのかもしれないと思うことがあります。でも景気が悪い時もあれば、良い時もある、そして就職のときに、景気が良ければ、その子は運が良く、リーマンショックの後のように失業率が高くなっているときに、就活をすることになった子供たちは運が悪い。そんな運の善し悪しがあるような社会であることをどのように教えれば良いのかと思います。

 実際、最近、ちょっとだけ景気が良くなって、それで就職できて良かった、おめでとうと言っていた教え子もいれば、今ではあっという間に、その時代が終わってしまって、苦しいことばかりを語る卒業生が多いのです。この上がり下がりをどう伝えたものか、人生は良い時も悪い時もある、というのは、昔から教師から子供たちに教えてきた真理だったと思いますが、でもこの速度にはどうしたものでしょうか。

 過剰流動性という言葉は、焦りと不安の時代と言い換えてもよいのではないでしょうか。それは本当に私たちの人間の自然がもとめてきたことなのでしょうか。それが私にはどうしてもわかりません。もし私たちの自然の生き方が、その速度についていけないほどの機械化、あるいは情報処理化によって、異常な変形を遂げる必要があるなら、まるでマトリックスじゃないですか。

【返信】

 先生であるIさんとしては、ちゃんと就職して、長い間にわたって同じ会社に就職する、安定的な生き方を当然としやすい、のは当然でした。それに教師志向のキャリアデベロップメントをしてきた人は、そうした性向があるという認識の文脈があるということに加えて、少なくともこの15年ぐらいに明らかになってきた、過剰流動性や社会の変化は、子供たちの世代にしか分からないところがあります。実は私も子供たちの認識についていくのはけっこう大変な仕事になりつつあります。

 物事の認識にはアウントサイドインとインサイドアウトという二つの見方があります。亡くなられた小此木先生が好きだった言葉で、もともと飛行機乗りの用語らしいのです。飛行機というのは、離陸してある程度の高度に入るまで、自分と管制塔を起点として、空へと飛び立っていきます。これは自分の視点から、宇宙を外の座標の視野として見ている。これはインサイドアウトの視点です。そしてある高度まで達すると視野は、宇宙や空の座標の中の一点として飛行機をとらえて、出発点から到着点までの距離を外の視点から測定していくほうに視点が切り替わるのです。この視点の移動の問題と、景気循環や気分変動のような一定の枠組みの中での変化、上下動とを区別しておく必要があります。

 以前お話ししたように、今の若者は多くが三年ほどで会社を辞めてしまう、こうした特徴があります。この問題は、非正規雇用員を日本の社会のなかに膨大に作り出している原因のひとつになっているのですが、以前はここに正規社員を雇うことに対する会社側の葛藤とできれば正規社員になって、安定した就職をしたい若者側のニードの相互作用の結果だというお話をしました。つまり若者が、最初に入った会社を吟味して、ここではやっていけないと思ったら辞めてしまうのは、こうした相互作用のなかに、心と経済の入れ子構造が作用しているからだとお話したわけです。でもこれはどちらかというと、インサイドアウトの視点、アスペクトです。若者が就職するときに、外の世界の環境の厳しさがどのように見えるかという観点から考えた見方です。

 ここで逆にアウトサイドインの視点から、若者たちの離職の多さを見直してみたらどうでしょうか。それは過剰流動性やその社会がもたらす価値の変動幅の大きさと連動していて、就職活動を捉えなおすことになります。つまり大学卒業の前の一年の間に職業の最終決定をするなら、Iさんのご指摘の通り、運の善し悪しが毎年変動するような、ほとんど為替変動のような状態になってしまいますが、三年ぐらいで、毎年若者が仕事から離れることが続くならマクロレベルで就職の決定に数年の幅のあるキャリア形成プロセスが、確率論的に形成されることになります。インサイドアウトでは、ネガティブに見えていたものが、アウトサイドインでは適応的な集団行動に見えるようになります。

 ですから私たちは、飛行機の離着陸のときのように、いつも内側から物を見るだけでなく、経路飛行時の飛行機のように、外側から自分の視点を見ることができる必要があるのです。就職の場合、特にインサイドアウトの視点を人々が取りやすいのは、離着陸という比ゆが、就職と社会への離陸という発想と近いということから、理解できます。誰でも新しい生活を始めるとき、外の世界が膨大に不安に見えるもので、自分のことばかりが気になって、自己中心的な視点を取りやすいのです。でもこれはあくまで比喩でしかありません。現実の社会は、インサイドとアウトサイドの両方から物事を見ながら、あるいはインとアウトの間を行き来しながら進んでいくものですし、その二つの視点がないと、どちらか一方に偏った経済行動に走りやすいのです。

 この点で確認したいのですが、こうした相互の入れ子構造を多くの人たちが失ってしまうような現象こそバブルなのです。大局的に見ていつまでも天井に上るような景気はあり得ないはずなのに、繁栄が永遠に続くように思ってしまうこと、今の中国がそうですが、そうした認識が作られていってしまうのです。確率論的な現象とし、信じるものは救われるではないが、一度、信じたものに皆が飛びつきやすいのです。一方向性こそバブルです。

 経済学でバブルというのが、市場に内在的なものかどうかは立場によって違います。でも社会現象として、市場化された社会ではどこでも、バブルは起きやすいと思いますし、今の社会はあらゆるところでプチバブルが起きています。集団意思決定は、民主主義が理念化されてきた根拠でもあるところが重要なことなのですが、みなが集団で意見形成を行う原則がある限り、物と心のバランスや自己と他者のバランス、そうした主観と客観の間の領域に均衡をとるある程度の幅があるという認識が必要になるのです。でもだからこそアウトサイドインで見てみると、逆にその領域があるからこそ、一方向に走りやすいとも言えます。

 しばしば指摘されてきたことですが、オランダのチューリップ・バブルは、花が対象という、いかにも「散るもの」といった、そのばかばかしさのためにあまりに有名ですが、バブルというのは投資や投機という、いわゆる株や為替の世界だけではない、つまり信用によって合意を取り付けるというやりとりが成り立つ世界では、経済現象として、心理現象として、広くいえば人間の現象として不可避なのです。そして信用だけの社会では、あからさまに言えば、私たちは皆「薄氷の上を歩いている」とも言えますし、よく言えば「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とも言えるのです。人間関係で、小さなところで起きているバブルのことを「思い込み」と言います。

 ものやお金を乱発することは原理的に可能かもしれませんが、人が絶対的な信頼を他の人に向けることは、非常に早期の乳幼児期か、自己愛人格の歪んだ幻想の中以外では無理です。ですから皆が同じ物を大切だと思い、その価値をどこまでも吊り挙げていって、それをなおかつ信用していくことは、心の原理として無理なのです。バブルはいつか崩壊します。というのも絶対的な信頼などないし、発展や進歩、あるいは昇進はいつか限界が来ます。そしてカタストロフィーが起きるときには、「大丈夫」と思っていた時なのです。数学者のルネ・トムが「カタストロフィー」と呼んだ現象は、人間の行動では特に広範囲に見られる現象です。突然、すべてのことの基盤が失われるような感覚、これは分裂病的な世界没落感です。

 精神病理現象に限りなく近いカタストロフィー現象は、多かれ少なかれ人間が対外的にも経験しているのですが、分裂病ではそれが意識の統合部で起きるのです。ある分裂病を発症した患者さんが自分の病的な体験をこう言っていました。「なんとなく不安だったり、なんとなく調子が悪いということは今までにもありました。でもそれは突然起きたんです。大丈夫だ、自分は大丈夫だと言い聞かせると、ますます不安になってきて、焦り、焦りがなくなると、いつのまにか、まったく別のそれがはじまったんです」と。「それ」というのは、それとしか、第三人称中性主語でしか語れない「それ」です。フロイトの言う「エス」みたいですが、ここでは主に病的な幻覚妄想体験のことですが、この現象は主語と述語の、アスペクト知覚を失ってしまったときに起きる現象なのです。

 これまで繰り返してきたように、過剰流動性を支えているのは、インターネットを中心としたネット社会の認識論ですし、この社会は信用や信頼を、一方向にある価値に信用して、それに賭ける、しかも皆が良いと思っている価値ならば、確率的に多くの人が乗るようにできています。ですからここで再び、一方的な価値に一生をささげようとすることのリスクが高くなったことを確認したいと思います。

 ここでIさんにあわせて、教育における視点の重要性を繰り返したいと思います。今の社会は、多くの人が同じウィンドウを覗き込みながら、クラウド化した空間に浮遊する他者の不在をその特徴としています。ですから認識の視点をインサイドアウトとアウトサイドインの双方に対して、柔軟である必要があります。アバターである自分は、他者をモンスターにも、あるいは敵にも、あるいは恋人にも見えるような立ち現れ方をする風景をもっています。そこで私たちは、自分の視点からしか風景を見ないゲーマーの視点を取りやすい。だからこそ、視点の移動は教育のもっとも重要な課題です。

 この視点の移動を支えているのは、他人の視点に立って考える「メンタライゼーション」と呼ばれる機能を、小さい時から重視することを意味しています。古い言葉では「思いやり」で良いのですが、前述のように、他人の視点に立てる観察的な視点は、アダム・スミスが同情の発達に関して強調したものだということができます。歴史にしろ、生物学にしろ、他者の視点から同じ現象を見られるようになることこそ、もっとも重要な資質なのです。他者には、あらゆる動物が含まれているはずです。そして文化装置という視点から見るなら、小説や映画の役割もここにあります。私たちは自分の欲望から幻想をする回路が育っていく中で、視点の移動という社会的な技能がますます必要になっていくのです。だから思春期から大人にかけて、さまざまな主人公の他者の物語を欲求するのです。

 繰り返しますが、このメンタライゼーション、思いやりの能力は、母親と子供がごく普通に、自然に発達していくなら、傷つきながら、相手の傷を発見していく、観察的な第三者を通して、自然に獲得されていきます。子供時代は漫画、そして思春期までになると小説や映画を通して、さまざまな悲喜劇を人の心の中に発見していくプロセスのなかにあるものだと思います。ですから、インターネットが変質させる人間の認識でもっとも求められている能力は、自然の中にあるものだと思います。ただこの他者になる能力の速度を上げていく必要性が、教育に求められる時代になったということなのでしょう。ご健闘を祈ります。

村上龍RYU'S CUBAN NIGHT