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No.519 Monday Edition 
配信日:2009-02-16
 Q:950への回答ありがとうございました。時津風部屋力士死亡事件で傷害致死罪に問われた元親方は、「しつけのために行ったのであり、暴行ではありません」と述べたそうです。

 「躾」だったら、ビール瓶で頭を殴ってもいいのだろうかと思います。昔からわたしは、躾という言葉に異和感を覚えました。幼児虐待で逮捕された親も「虐待ではなく躾だった」と主張することが多いそうです。子どもが社会的な規範を学ぶことはもちろん必要ですが、そこに暴力が介在することはフェアではないと思います。

 家庭でも学校でも、あるいは職場や軍隊でも、躾を行う側は常に強い立場にあり、弱者は基本的に抵抗できません。愛情があれば子どもを殴って育ててもいい、などとよく聞きますが、子どもが受ける痛みは同じですし、殴る側に愛情があるかどうか判断がつかない場合もあります。暴力を伴う躾は、厳しい子育てとか、愛情の発露というより、単にコミュニケーション能力の欠如ではないでしょうか。

 もう20年近く前ですが、パリ・ダカール・ラリーの取材でサハラ西端のモーリタニアという国に行ったとき、わたしたち10人ほどの取材グループは、ある地方都市の郊外の広場で、棒きれやナタを持った数百人の現地の子どもたちに囲まれ、非常に不穏な状況に陥ったことがありました。子どもたちは、食料やカメラ機材を盗もうと近寄ってきました。大声を出して追い払うと散り散りに逃げるのですが、またじわじわと何度も何度も近寄ってきます。やがて警官がやって来て、ムチで子どもたちを殴り、追い払いました。

 ムチで強く殴られ出血する子どももいて、わたしは不愉快になったのですが、その状況下では暴力の必要性を理解しました。しかし、警官がふるったムチは躾というより、外国人の生命と財産の防衛で、しかも他に選択肢はありませんでした。子どもへの躾に必要な暴力、というものは存在しないとわたしは思います。

参考記事: http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090212-00000051-jij-soci
村上龍RYU'S CUBAN NIGHT