前回の配信で、慢性骨髄性白血病(CML)の特効薬であるグリベックの患者負担の問題を紹介させて頂きました。一昨年来の経済危機が、高度成長期(昭和48年)に創設された高額療養費還付制度の問題点を顕在化させました。
私たちの研究室の田中祐次たちが調べたところ、慢性骨髄性白血病患者の世帯総所得は2000年の508万円が、2008年には400万円に減少しています。一方、治療薬グリベックの自己負担は2000年59万円、2008年58万円と横ばいですから、患者・家族の負担感は増加しています。実際に、約30%の患者が経済負担のために、グリベックの中止を考えたことがあり、その中の10%が実際に止めていました。まさに、金の切れ目が命の切れ目になっています。
医学の進歩により、画期的な新薬が出来ても、社会制度(高額療養費還付制度)が対応できていないため、その恩恵が患者へ還元されていません。古くなった社会制度を、早急に現状に合わせる必要があります。
【制度疲労した高額療養費制度】
前回の配信以降、医療費の問題について、何人かの患者・家族と意見を交換しました。
その中に、原発性肺高血圧症の会の会長の村上紀子さんという方がおられました。原発性肺高血圧症とは、心臓から肺に血液を送る肺動脈の血圧が高くなり、心臓と肺の機能に障害をもたらす原因不明の疾病で、厚生労働省が難病に指定しています。患者数は多くはありませんが(2006年現在961人)、比較的若い人に発症し、予後不良です。従来、生存期間は2−3年で、約1/4が突然死するとされてきました。この状況を変えたのが、2004年の新薬フローラン(グラクソ・スミスクライン社)の登場です。この結果、生存期間、QOLとも、劇的に改善しました。
ところが、この分野でも医療費にまつわる問題が生じているのです。フローランの年間売り上げは94億円(2007年度)で、患者一人あたり年間1000万円以上の薬代が必要な高額な医療です。この疾患は、厚労省が特定疾患(難病)に指定しているため、患者・家族の負担は殆どありませんが、健康保険組合にとっては大きな負担になっています。このため、一部の保険組合は、フローランの処方を減らすように医師に圧力をかけていると言われています。これでは、患者はたまったものじゃありません。これまで、村上会長以下、患者会の方々が厚労省に陳情してきましたが、厚労省と保険組合をたらい回しされ、問題は解決されていません。
また、適応外処方問題に取り組む卵巣がん体験者の会スマイリー代表の片木美穂さん、細菌性髄膜炎から子どもたちを守る会事務局の高畑紀一さんなどとも、お会いすることが出来ました。何れも、医療費に関する深刻な問題を抱えていました。
【モデルケース慢性骨髄性白血病患者の動き】
慢性骨髄性白血病患者団体の動きは、このような問題の解決を考える上で示唆に富みます。そのポイントは、関係者が熟議を通じて、ボトムアップの合意形成に努めたことです。従来の「お役所陳情」とは質的に異なっていました。
【情報共有:韓国患者会との連携】
グリベック費用負担の問題で中心的な役割を果たしているのは、「CMLの会」の野村英昭代表です。野村氏はCML患者で、長年にわたり、この問題に取り組んできました。
今回の活動にあたり、彼は韓国のCML患者会から強い影響を受けました。韓国の医療制度は、我が国を模倣した部分が多く、韓国でもグリベックの患者負担が問題となっていました。このような問題に直面した韓国では、患者団体が中心となって世論を形成し、患者負担無料化を勝ち取ったのです。
韓国での経験は、医療専門のオンラインメディアであるロハスメディカル、MRIC、日経メディカルオンラインなどを通じて、我が国に紹介され、多くの患者や医療関係者が認識するに至りました。そして、本年6月12日には韓国患者会の中心人物姜柱成氏や最鐘燮氏が来日し、日本の患者団体と合同シンポジウムを開催しました。一連の活動は、野村氏をはじめ、日本の患者会の人々の尽力によるものです。
韓国患者会の活動を若干、ご紹介させていただきます。何れも姜柱成氏のMRICへの寄稿からです(
http://medg.jp/mt/2009/06/-vol-133.html )。
「自分達の立場を代弁してくれる適当な組織がないということに気づいた患者たちは、『(仮称)グリベック保険適用のための慢性患友会』を作り、代表を立てながら今までとは違うやり方で対応を模索した。」
「こうして作成された訴え状を携え、7月1日、果川(ガチォン)ソウル大公園に、患者とその家族、ボランティア約40人が集結。『セビッヌリ会』の名で訴え状を朗読し、約2時間かけて署名運動を展開した。」
「患者たちは、デモのみならず、薬価審議委員会の会議内容について情報公開を要求し、薬価を決定する過程に患者本人らの意見を反映できるよう意見書を添付して薬剤専門委員会に提出した。」
「韓国ノバルティス社は、保健福祉部の公示価格が『G7平均薬価算定の基準』を違反する場合、通商問題に発展する可能性があると指摘。(中略)アメリカ通商代表部(USTR)および韓国多国籍医薬産業協会(KRPIA)も保健福祉部と外交通商に公文書を送り、韓国が自ら決めた新薬の薬価算定基準を守らないことで発生する通商摩擦への深刻な恐れを表すなど、多角的に政府へ圧力を加えた。」
「22日の夜11時頃には、「グリベックの問題は単純に薬価の問題だけではなく、人間の基本的な人権の問題」として国家人権委員会を占居、籠城することを決定した。」
「18日間、国家人権委員会で籠城していた患者たちは、2月8日午後、全体会議を開いて今までの籠城過程とその過程で収めた成果、またこれからの課題について確認。翌々日の2003年2月10日午前11時、特許庁の前で最後の記者会見を行い、もって籠城を終結させた。 (中略) 2005年9月1日、保健福祉部の重症疾患登録制度の施行で白血病患者の自己負担が20%から10%に変更された。これにより、グリベックを服用する患者は事実上、自己負担額がなくなることとなった。」
【署名活動とインターネットメディア】
洋の東西を問わず、社会改革を目指す市民が、まず始めることは「仲間集め」です。その一番簡単な方法が「署名活動」です。実際、韓国の患者会も、我が国の患者会も署名集めから始めました。
7月17日現在、野村氏が集めた署名は、8万7000件。CMLの患者数は約1万人、家族を含めても2−3人ですから、患者・家族より遙かに多い市民が賛同したことになります。
私の個人的な感覚から言えば、署名を依頼されて、実際に署名する人は1割未満です。そう考えれば、8万7千人の署名が集まったことは、100万人以上にリーチしたことになります。これは、男性週刊誌などの発行部数の2−3倍です。
署名は患者会活動の基本ですが、昨今のインターネットメディアの発達は、署名のあり方を変えつつあります。今回の場合、署名活動を行っていること自体にニュースバリューがあり、署名の集まり具合を、ネットメディアが繰り返し報道したため、絶大な宣伝効果があったのです。
医療界の代表的なネットメディアとして、ロハスメディカル、ソネット・エムスリー、メディカルトリビューン、日経メディカルオンラインなどが挙げられますが、いずれも厚労省記者クラブのメンバーではありません。このため、官僚とのしがらみがなく、マスメディアとの対比のためにも、現場発の情報を重用する傾向があります。彼らにとって、患者の運動は記事の恰好のネタです。
さらに、ネットメディアの多くが、メールマガジンと連動しているため、約0−20万人の「グリベックに関心がない」患者・医療関係者に情報が提供されました。このような情報流通を通じ、患者・医療関係者に「グリベックの患者負担は看過できない問題である」という認識が植え付けられました。
従来、霞ヶ関では利害関係者(ステークホルダー)を審議会や検討会などの場に集め、合意を形成しようとしました。この方法の問題点は、当該案件と直接的に利害関係を有しない99%以上の国民が蚊帳の外に置かれることです。その結果、国民は無関心になり、問題解決の機運が高まりません。今回の署名活動とは、対照的です。
【政治家には如何に映るか】
では、このような市民運動は、果たして政治家には、どのように映っているでしょうか?おそらく、多くの政治家は、患者活動を潜在的脅威と感じ始めているのではないでしょうか? なぜなら、患者運動の主体は、中高年の女性を中心としており、選挙の際の浮動票の担い手そのものだからです。また、参議院選挙の比例区の最低得票数が20万票程度なのに(つまり日本医師会の動員力は20万票程度)、10万人の署名を集める団体が次々に出現しています。
野村氏の署名活動についても当てはまりますが、患者団体の署名活動には「組織票」は関与せず、もっぱら草の根運動に依存しています。このような状況は、彼らが主催する講演会に出席すれば一目瞭然です。来賓挨拶の際の拍手はまちまちで、業界団体の会合で見受けられる整然とした拍手は見かけません。このような人々が、医療や介護問題をきっかけに、連帯して動くのですから、それが投票行動と結びつけば、大きな影響力を持ち得ます。
では、このような患者活動は、どのような道を辿るのでしょうか。おそらく、政治権力は患者ネットワークを組織化し、その枠組みの中に位置づけていこうとするでしょう。長崎二区で民主党から立候補している肝炎被害者 福田衣里子さんなどは、その代表例です。民主党は、福田衣里子さんを通じて、肝炎患者の支持を集めることに成功しています。
私は福田さんのようなケースが出現し、社会に一定の貢献をすることを否定しませんが、患者会活動の多くは政治権力とは一定の距離を起き続けるのではないかと考えています。それは、今回の署名活動を主導した野村氏や、骨髄バンクの育ての親である大谷貴子さんなどの活動を見ていると、政治や官僚とは一定の距離を維持しようと努力しているように感じるからです。政党や霞ヶ関に盲目的に依存するのではなく、様々な問題を個別に考える賢い有権者が誕生しつつあるように感じます。
【グリベック問題に対する民主党の対応】
実は、グリベック自己負担金問題は総選挙の争点に浮上しています。与野党の見解をご紹介しましょう。
野村氏らは3月11日、民主党がん議連を訪問し、グリベック問題の窮状を訴えました。この会合で、代表の仙谷由人衆議院議員は、患者サイドの申し出を全面的に受け入れ、後日、舛添厚労大臣に申し入れを行っています。
また、7月27日に発表された衆議院議院選挙の政権政策の中に「高額療養費制度に関し、治療が長期にわたる患者の負担軽減を図る」という文言が入り、民主党は患者支援という方向性を明確に打ち出しました。総選挙で、民主党を中心とした政権が出来た場合、この方向で調整が進むでしょう。
【強固に抵抗する厚労省、意志決定できない自民党】
一方、自民党の対応は見えてきません。
7月17日に、患者団体は、舛添厚労大臣に意見書と署名を提出しました。舛添大臣個人は、患者と問題意識を共有し、様々な場で解決策に関して発言しています。ところが、舛添大臣の見解は自民党の総意とはなっていないようです。特に、厚労省保険局が強く抵抗しています。その理由は、以下の三点です。
1) エイズ、血友病、透析と比べると医療費は安い
2) 他に同様の疾患が多数ある
3) 医療保険財政が厳しい
いずれも屁理屈です。例えば、1)に関しては国民医療費と患者負担を意図的に混同させています。毎月の支払額に上限を設ける高額療養費制度では、医療費の総額は患者負担とは関係ありません。2)について、厚労省が例示したのは家族制コレステロール血症、成長ホルモン分泌不全性低身長症などの希少疾患4つです。いずれも患者数が少なく、患者負担を減らしても、それに要する財政負担は数十億円です。これらの疾患をすべてまとめて解決しても、年間の負担額は数百億円でしょう。勿論、候補の疾患が少ないのですから、3)で指摘しているような、一つ特例を作れば、歯止めが効かなくなり、保険財政を破綻させるなどとは考えられません。
このように厚労省の主張は支離滅裂で、「兎に角、医療費を増やしたくない」の一点張りです。おそらく、医療供給を制限することが、厚労省の権力の源泉であり、その意味では彼らの行動は合理的なのでしょう。旧ソ連末期の配給社会における官僚の姿と似ています。
現在、自民党は、患者と厚労省の板挟みにあっています。グリベック問題のような、患者視点に立てば、簡単に結論が出る問題まで、意志決定が出来ていません。長年、政権与党にあり、政策の大部分を官僚に依存してきたため、官僚の意見を批判的に評価できなくなっているのでしょうか。7月27日の民主党の対応を受け、自民党が総選挙までに、どのように見解をまとめてくるか興味深く見守りたいと考えています。