一昨年以来の経済危機も、最近は景気の底入れ感が強まり、先日のイタリア ラクイラ・サミットでは出口戦略が議論されたようです。ところで、この経済危機が、多くの患者に甚大な影響を与えていることをご存じでしょうか? お金がなくて治療を続けることができない患者が続出しているのです。読者の方々は、「日本は国民皆保険で、全ての国民が医療を受ける権利が保証されている。医療現場にも市場原理主義を持ち込んだアメリカのようにならなくて良かった」とお感じのかたが多いのでしょうが、これは現状を正確に把握していません。
今回はグリベックという抗がん剤の費用負担を通じて、我が国の医療費負担の問題を考えたいと思います。この問題は、グリベックに限らず、多くの抗がん剤や治療法に通じる構造的問題です。
【近代医学の結晶 グリベック】
グリベック(化合物名イマチニブメシル酸塩)とは、スイスの製薬企業ノバルティス社が販売する飲み薬の抗がん剤です。オレゴン健康科学大学のブライアン・ドラッカー博士の研究成果を元に、1992年より非臨床試験、1998年より臨床試験が始まり、2001年5月に米国FDA、同年11月に我が国で慢性骨髄性白血病の治療薬として承認されています。グリベックの登場により慢性骨髄性白血病は、その治療戦略が抜本的に見直されました。
慢性骨髄性白血病とは稀な白血病で、年間の発症者数は1200人程度、国内に約1万人の患者がいます。発症年齢の中央値は66歳と、高齢者に多い病気です。元関脇の蔵間さんが亡くなった病気と言った方がわかりやすいでしょうか。この病気は、数年の経過でゆっくりと進行し、10年程度で全員が亡くなります。治癒が期待できる唯一の治療法は骨髄移植ですが、副作用が強いため、一部の若年患者しか受けることができません。そのため、従来はインターフェロンを用いて延命を図るのが標準治療とされてきました。
このような状況は、グリベックの登場により一変しました。グリベックの治療成績は極めていいのです。2008年の米国血液学会で発表された研究結果では、グリベック投与患者の7年生存率は86%です。これは、従来、標準治療とされてきたインターフェロンαの7年生存率が36%であったこととは対照的です。
第二の特徴は、副作用が軽く、殆どの患者が通常の日常生活を送れることです。抗がん剤というよりは、降圧剤に近い存在です。これは、インターフェロンが強い倦怠感や発熱などを伴うこととは対照的です。そもそも、インターフェロンは、ウイルス感染時に体内で作られる物質です。インターフェロンによる発熱・悪寒・倦怠感は、風邪をひいた時をイメージするとわかりやすいでしょう。
グリベックの副作用が軽いのは、がん細胞だけに発現している特定の分子を狙い撃ちして、がん細胞の分裂を抑制するからです。このため、グリベックのような薬剤は「分子標的治療薬」を呼ばれ、従来の正常細胞もがん細胞も同じように攻撃する「細胞傷害型」抗がん剤とは区別されています。
グリベックは、1960年代にペンシルバニア州フィラデルフィアの二人の研究者が、この染色体を発見して以来の長年の医学研究の成果です。グリベック以降、多数の分子標的治療薬が開発され、多くのがんの治療戦略が見直されつつあります。このため、ブライアン・ドラッカー博士は将来のノーベル生理医学賞候補と呼ばれています。
余談ですが、2001年にグリベックが承認された際、多くの医師は「グリベックの効果は長続きしない」と考えていました。何を隠そう、私もその一人です。グリベックの服用を続ければ、早晩、薬剤耐性が出現し、再発が増えると予想していました。事実、2001年には米国UCLAのGorreらのグループが、最初の「グリベック耐性」をサイエンス誌に報告し、警鐘を鳴らしました。
ところが、グリベックの長期成績は、専門家の予想を覆しました。「グリベック耐性」は臨床的には大きな問題にならず、ほとんどの患者が再発しませんでした。ただ、どうやらがん細胞は根絶されている訳ではないようで、妊娠などの理由で休薬した人が再発したという症例報告が発表されています。つまり、グリベックは慢性骨髄性白血病を抱えた患者にとり、「休薬できない」命綱とも言える存在になったのです。
【製薬企業の方針転換】
2006年現在、世界の薬剤市場のトップ10は降圧剤2つ、抗コレステロール剤2つ、抗精神病薬2つ、あとは抗血栓薬、ぜんそく薬、潰瘍薬、リウマチ薬です。トップ30になって、ようやく3つの抗がん剤がランクインします。その内訳は、悪性リンパ腫に有効なリツキサン(ロシュ)、乳がんや肺がんに有効なタキソテール(サノフィ・アベンティス)、さらにグリベックです。ちなみに、リツキサンとグリベックは分子標的治療薬に分類されます。
従来、メガファーマにとって抗がん剤は有望な投資分野ではありませんでした。「物好きな」中堅規模の製薬企業がたむろする分野という印象でしょうか? この状況を変えたのがグリベックです。この薬の登場により、慢性骨髄性白血病患者はグリベックを飲み続けてさえいれば、普通に生活できるようになりました。患者が亡くならないため、慢性骨髄性白血病患者の数は着実に増加しました。毎年、1200人しか発症しないのに、8000人の患者がグリベックを服用しています。この数は、今後も増加するでしょう。
一方、グリベックの売り上げは鰻上りです。2006年現在、我が国だけで400億円、世界では22億ドルに達するブロックバスターに成長しました。グリベックの売り上げは、全ての薬剤の中で28位、抗がん剤分野ではリツキサンについで第2位です。
特効薬を開発して、利益を生み出すことは、製薬企業のまさに理想です。グリベックは、まさに製薬企業の理想を体現した存在といっても過言ではありません。大きな売り上げが期待できれば、メガファーマも開発に参画できます。グリベック以降、抗がん剤分野に大手の製薬企業が参入するようになり、抗がん剤は新薬開発の花形になりました。現に、我が国でも、約10種類の分子標的治療薬が既に臨床応用され、数え切れない新薬が開発されつつあります。
【グリベックの経済負担とオーファンドラッグ制度】
グリベックは、慢性骨髄性白血病を抱える患者、家族に大きな希望を与えました。しかしながら、同時に予期せぬ不安も作り出しました。それは、グリベックを使えば、家計が圧迫されることです。
実は、グリベックは非常に高価で、1錠3100円もします。通常、1日4錠を服用するため、1日の薬代は1万2800円。年間で450万円になります。患者の自己負担額は1−3割ですから、年間の支払いは45−135万円になります。これは、降圧剤の薬価が1錠あたり20−160円で、年間の薬剤費が1.5−12万円、自己負担額が高くとも4万円程度であることとは対照的です。
我が国の薬の値段は、厚労省が様々な状況を考慮して決めます。価格設定の際にもっとも考慮するのは、「市場規模」です。患者数が少ない希少疾患(日本では5万人未満)の薬は、製薬企業にとっては開発のリスクが高く、利益が見込めないため、社会的必要性があってもしばしば開発対象からはずされます。このため、このような薬剤は「オーファンドラッグ」と呼ばれます。
厚労省は、オーファンドラッグの研究開発を振興すべく、薬価、研究開発費の助成、法人税などの控除、承認審査の優先といった優遇措置を設けています。当然ですが、グリベックはオーファンドラッグに認定されています。オーファンドラッグ制度を介して、厚労省は製薬企業の新薬開発インセンティブを維持しようとしています。
【高額療養費還付制度】
一方、患者の医療費が負担に関しては、厚労省は「高額療養費還付制度」で対応しようとしています。この制度では、1ヶ月間に同一の医療機関でかかった費用を世帯単位で合計し、限度額を超えた分が返還されます。制度は複雑なのですが、70歳以下の患者の場合、月収が53万円未満なら、毎月の上限額は4万4400円になります。70歳以上では、高額所得者を除き1万2000円が限度額となります。年間負担額は、前者で53万円、後者で14万円です。
この制度は、従来、患者が医療機関に自己負担額を支払った後、保険者に高額療養費の申請を行っていました。この「申請主義」は、多くの患者が制度の恩恵にあずかることを妨げてきました。様々な批判を受けて、2007年4月より70歳未満の患者に関しては、保険者に高額療養費限度額適用認定証を申請し、交付された認定証を病院に呈示すれば、患者は、後で還付される高額療養費を見越した自己負担額のみの支払いで済むようになりました。これは、一定の改善であることは事実ですが、この制度においても、患者自身が申請しなければ、高額な診療費を支払わねばなりません。
ちなみに、私が周囲の医師や薬局に、「この制度の存在を患者に積極的にアナウンスしているか」と質問したところ、大部分が「特に告知していない」との回答でした。このように政府の多くの制度は、提供者の都合には配慮するのに、患者には考慮しないことを痛感します。制度を作っても、十分に告知しなければ、その効果は限定的です。さらに、高額療養費還付という目的を実現するだけなら、保険者と病院の間での自動処理が可能であり、医師や薬剤師の手を煩わせる必要すらありません。
【経済危機】
グリベックを服用している患者に大きな影響を与えたのが、経済危機です。派遣切り、就職難など、様々な雇用問題は、がん患者にも飛び火しました。平成19年度国民生活基礎調査によれば、慢性骨髄性白血病の好発年齢である、高齢者世帯の平均所得は約300万円です。彼らにとって、14−53万円の医療費が大きな負担になっているのは想像に難くありません。このように、経済危機以前から、慢性骨髄性白血病患者の一部は、治療を継続するために、ぎりぎりの生活を余儀なくされていました。ここに、不況の波が押し寄せたのですから、たまったものではありません。また、派遣切りや、就職できなかった若年患者にとっても同様です。
私たちの研究室には、患者・家族からは、以下のような訴えが寄せられています。「店を夫婦で切り盛りしている。夫が高価な薬は止める、といってグリベックを飲んでくれない」「グリベックが高額で、自分の収入だけでは一人暮らしとグリベックの両立ができない。実家に戻り、親の収入に頼らざるを得ない」「グリベックの薬代負担が大きく、この病気を抱えては結婚できない」
いずれも、生命と生活が天秤にかけられています。
余談ですが、グリベック服用患者への助成が議論されていますが、根強い反対意見もあります。医療専門サイトロハスメディカルに寄せられたコメントです。「CML(注:慢性骨髄性白血病)のQOLが良くなったのであれば尚更、充分に自助努力の中で保険医療を享受できるはずです。CML患者さんは本当に貧困なのでしょうか??? 私には疑問に思えてなりません」
(
http://lohasmedical.jp/blog/2009/07/post_1893.php )
一理ある考え方です。世の中には色んな意見があり、熟議を通じてコンセンサスを形成する必要がありそうです。問題は、議論の土台となるデータがなく、神学論争になっていることです。厚労省が開示していない部分もあれば、アカデミズムやジャーナリズムの怠慢という側面もあるでしょう。
私たちの研究室の田中祐次医師は、東京大学経済学部松井彰彦教授との共同研究として、慢性骨髄性白血病患者の経済状況を調査しています。研究を計画した段階では、個人の経済状況に関して患者・家族から協力が得られるか疑問だったのですが、予想を上回る回答を頂いています。解析結果は、今秋に発表の予定ですが、回答率の高さを鑑みれば、患者・家族がこの問題に強い関心をもっていることは確実でしょう。私たちの対応は遅すぎたかも知れず、深く反省している次第です。
【海外ではグリベックの患者負担はどうなっているか】
ところで、このようなグリベックの個人負担を、海外はどのように対処しているのでしょうか。私たちの研究室では、田中祐次(医師)、児玉有子(看護師)、畑中暢代(看護師)が中心となって、海外の状況を調べました。製薬企業に問い合わせても、正確な情報を入手することは出来ず、在外大使館、患者会、海外の学会など、あらゆるルートを用いて情報を集めました。
私は、研究結果を見て愕然としました。なんと、グリベックに関して、高い自己負担が強いられるのは、日本と米国だけなのです。米国の患者負担額は加入保険により異なりますが、年間で約$5−23000でした。日本では、高額療養費制度を用いた場合、$1400−5300($1=100円換算)になります。
一方、イギリス、フランス、イタリアの3ヶ国は、グリベックの費用は公的保険が完全にカバーしているため、患者負担はありません。ちなみに韓国も無料です。ドイツでは、処方の10%が患者負担ですが、上限額が決まっているため、年間負担額は最大で$270でした。
結局、我が国は、グリベックに関しては、米国と並び高額な患者自己負担を求めていることになります。これは、医療費を抑制するため、患者の自己負担を増やし続けた結果です。自己負担増の医療費抑制効果は限定的と言われていますが、「高価な薬を長期間服用しなければならない」患者の生存権を脅かすような状況を作り出してしまいました。
【グリベックを無料化するために必要な予算は15億円】
私は、日本は国民皆保険という世界に誇るシステムをもち、全ての国民が大きな負担なく、医療を受けることができると無邪気に信じ込んでいました。日本の医療制度は、市場原理主義の米国の対岸にあると思っていました。ところが、グリベックに関しては、日本医療の実態は米国と五十歩百歩なのです。一部の患者で「金の切れ目が命の切れ目」となっているのです。
これは、是非解決したい問題です。では、そのコストはどれほどで、誰が負担すべきでしょうか。実は、この問題を解決するためには、大きなお金は要りません。グリベックの自己負担をなくすためだけなら、わずか15億円で十分です。同様の問題を抱えるサリドマイド、あるいはアバスチンなどを全て考慮しても、総額は数百億円で十分でしょう。
では、このお金は誰が負担すべきでしょうか。国民の生命と財産を守ることは国家の基本です。私は、命に直結する医療のコストは、政府が保証すべき優先事項だと考えています。その場合、健康保険か税金が候補に挙がりますが、政治コストを勘案した場合、税金が現実的です。
【患者発の新しい動き】
実は、このような問題に真摯に取り組んでいる市民団体が存在します。韓国の患者団体、メディア、さらに政界とも連携し、ゆっくりですが、着実に事態は改善に向かっているようです。このような活動を通じて、医療費の問題が国民のコンセンサスとなりつつあります。次回、この活動をレポートさせていただきます。